技術と人気

言わずもがな人には好みがある。
それはばらばらで貴賎はない、と信じている。
しかし好みは分布していて好みが集中しているところもあればぜんぜん好みが存在しないところもある。
また、同一人物の好みにも範囲があり、中心に近ければストライク、離れるほどどちらでもよくなる。
性癖なんかは結構象徴的。


また、技術がある。
練習しただけ上達するもの、他の人と異なるオリジナリティからくるものなどなど。
これは同一線上において優劣が生じることがある。スポーツ然り、点数のつくもの然り。


行為者でも結果でもそれが反映される。
人気はある結果がどれだけ人の「好きなもの」の範囲に入るかによっている。だから行為者が行為なり結果なりを好みの集中しているところに投げることができればそれは多くの人の好みにかぶる。そして人気ができる。
一番好みが集中しているところに投げれば大衆的、かなり離れているけどなぜか好みが集中しているところに投げればコア、となる。


しかし技術が出てくる。
技術は好みを引き寄せる力がある。
その技術が大きなものであればあるほど近くにある好みが若干外れていようと引き寄せて好みの範囲に入った(ように見える)。
僕が野球はあんまり興味ないのにイチローの明らかな技術に感動するのがいい例。


また、技術というのは厄介なもので一見したらそれとは分からない技術がある。
また野球の例を出すと、走者が一塁にいて、バッターのピッチャーフライをわざと落として二塁に投げ、一塁に投げゲッツーにするようなものだ。
それをぜんぜん知らない人が見ると「ピッチャーがミスしたけどなんかうまいこと行った」と感じるだろう。
しかしちょっと頭を使えば「あ、頭いいことしたな」と分かってにやりとする。
つまり、技術は一度にたくさんのものも投げることができるのだ。
一見大衆的に見えるけど分かる人からしたらかなりコアな部分がある行為なり結果を残すことができるのだ。


技術を理解することができる人が理解することができない人を見下すことがある。
それは技術で勝負する、という観点からすれば当然のことだ。
しかし技術ではなく投げた場所で勝負しているのならば見下すことは間違いであるというしかない。




なんか長々書いているけど、いっちゃん言いたいのは音楽の貴賎はないということ。
好みが多いところもあるし技術もあるけど、音楽の最大の特徴は受け手が完全に評価を決定することができるところであって、受け手が技術を無視するのであれば投げた場所しか意味を持たないので投げる場所なんて上下が決まるわけがない。
クラシックは優れていてメタルは騒音?
そういう流れがどうしても理解できない。
こっちは「どれだけエネルギーをくれたか(心を揺さぶったか)」で評価していてそれ以外は必要としていない。


なのになんで貴賎をつけたがるのか。理解できない。