可換非可換

学校は耐えれば耐えられるね。
耐えてどうするって話だけどw


(何事もそうかもしれないけど)人間は代わりがきいて(可換であり)、代わりがきかない(非可換である)。
会社(社長)にとっては係長がいなくなっても係長補佐が係長になったりして代わりの役割を果たすことができる。可換。
一方家族にとってはその人は非可換である。
ある日急に「今日からこの人がお父さん」って言われても前のお父さんではない。非可換。
大事なのは言うまでも無く非可換である。
両親は非可換である僕に期待しながらも「元気でいればそれでいい」なんて言うからタチが悪いのだけれどw
だから僕は非可換である繋がりを大事にしたい。


けれど本当にそれだけでいいのか、と思えてきた。
中学校では、たとえクラスに友達がいなくても学校に行かなければ問題としてみなされる。それに対する疑問はあるけど今はおいといて。
それは中学校が義務教育であり、その人が「□クラスの○○君」という非可換な存在になっているからだと思う。その人を卒業させなければいけない、と言う意味でね。
けれど大学では違う。
好きで入ったんだし休み続ければ当たり前のように留年、退学。
それはもう大学ではその人は学生の一人であり、名前はあってないようなものだからだ。
会社に入ればそれはますます強くなるだろう。
特別な才能を持つなら別だが、社会人としてのその人はほぼ非可換になるだろう。
恋愛もそうだ。別に僕でなくても条件を満たせば合格、付き合う。うまく非可換になれればゴールイン。恋愛について書くとどうしてもネガティブになるからこれはここでやめww
友達は可換。非可換になったら親友。


可換から入って非可換になる。みもふたもないようだけれど僕はそう考える。
さっきは社長にとって係長は可換だなんて書いたけど重役になれば話は別だろう。それは非可換になったのだ。
つまり、可換である部分を非可換にする努力が必要なんじゃないか…な?w


親友は失われるかもしれない。親の期待もいつまでも得られるものじゃないだろう。
でももうちょっと可換の部分に力をかけてもいいんじゃないかなーとか思えてきた。
「学校なんて俺一人いなくても変わらないし…」なんていいわけをやる気の無いことへの免罪符にしていた僕へのひとりごとw